慈光院

臨済宗大徳寺派 慈光院の見学会に参加しました。慈光院には書院に隣接した、石州好みの茶室があります。茶室研究の第一人者である京都工芸繊維大学名誉教授、中村昌生先生の非常に興味深い解説をききながらお抹茶を頂き、小鳥の囀る小春日和の優雅な午後を過ごしました。

中村先生の解説や、堀口捨己氏の文章などを参考にじっくりと空間を味わってみたいと思います。

 

慈光院 概要

臨済宗大徳寺派慈光院は、奈良県大和郡山市JR大和小泉駅より北へ10分程度歩いたところ、富雄川西側の緩やかな丘の上にあります。

1663年(寛文3年)小泉藩主片桐石見守貞昌が、父貞隆と母の菩提寺として建立しました。貞隆は片桐且元の弟です。開山は大徳寺185世和尚玉舟和尚で、大徳寺の高林庵も貞昌が建てたということです。

貞昌は石州とよばれ、千道安の茶系を引く桑山左近に茶の湯をならい、石州流の茶の湯の祖とされています。土木の仕事に奉行として長年勤め、知恩院の修復や仙洞御所の庭園などに携わっているそうです。

慈光院を詳細に検証し、その価値を世に広く知らしめたのは、堀口捨己氏です。堀口捨己氏は建築関係者なら誰もが知っているすばらしい建築家です。簡単にご紹介しますと、1895年岐阜県生まれ、東京帝京大学建築学科を卒業。時代の先端の建築をつくると同時に日本の建築や茶室の研究を通して、日本の美を探求しました。1984年に永眠。自身も多くの茶室や数寄屋をつくられていますが、それは単に日本の伝統を継承する作業では無く、本質を明らかにして現代の建築に展開しようとされたことが、文章を読んでいても伝わってきます。堀口捨己氏は戦争中、慈光院に滞在し、銃弾が分厚い本を何冊も貫通するような状況の中で研究されていたそうです。(慈光院ご住職談)

中村先生は、堀口捨己氏と稲垣栄三氏と茶室起こし絵図集を復刻され(昭和42年ごろ完成)、堀口捨己氏と師弟のような関係になったと回想されていました。

堀口捨己氏が研究されていたころの慈光院は書院とそれに付属する茶室、その北側に直接つながった本堂で構成されていました。しかし堀口氏も指摘されているように創建当時は玄関と本堂の位置が違っていたようです。現在は創建当時に近づけて、玄関と本堂が復原されているそうで、新書院も新しく建てられています。

 

アプローチ

JR大和小泉駅から慈光院までは、まだところどころ田んぼの残る、古い郊外の、普通の街が続くのですが、慈光院境内の入り口からは別の景色が始まります。両側に生垣のある細い坂道をのぼると右手に一之門があります。

(写真 上 参道入り口 下 一之門)

一之門をくぐって 茨木門より参道を振り返る

一之門をくぐると、木立の間に参道が2度折れながら、茅葺の茨木門まで続いています。

(写真 上 一之門をくぐって 下 茨木門より参道を振り返る)

参道の動画を用意しました。手ぶれしていますが鳥の囀りを聞いて雰囲気を味わってください。

銀閣寺や詩仙堂など、木立や生垣の間のの小道を、曲折しながらアプローチさせるところはどれも好きですが、ここも手を入れすぎていない、なにげない参道になっていて、いいですね。いつかアプローチの特集をしたいものです。

(写真 上 茨木門をくぐって玄関方向を見る 下 書院より茨木門をみる)

 

書院と庭

このページの一番上にあるのが書院を茨木門からみた写真です。外観は茅葺の民家風で、質素で控えめです。

一般的な禅宗の書院形式にはなっておらず、一番東の13畳が床と付書院が付いた上之間で、その西側が北6畳と中之間といわれる南8畳、次に水屋と南の4畳、さらに西に復原された板の間から広縁で玄関につながっています。

東と南に広縁があり、建具を開けると東と南の眺望が大きく開け非常に開放的で、民家風ではない、簡素で上品な空間です。東側は遠くの奈良の山々と眼下の富雄川の眺めを取り込み、南側にはその大きな自然に合うような大刈り込みの植え込みの庭が作られています。残念なのは東側の景色で、街全体として京都のような景観に関する気遣いがあまりなく、ゴチャゴチャとしたスーパーや商店、ゴルフ練習場などと、美観にはあまり無関心に整備されている富雄川が見えるのです。昔の美しい景色は想像するしかありません。(上 書院床の間  中 書院より東側景色を望む  下 書院より南側庭を望む)

南側の庭で特筆すべきは、植え込みだけで石組みや池などが無いことです。大橋治三氏によると全国で9箇所(私の大好きな修学院離宮も含まれています)ほどしかありません。(注1)この庭の四季折々の美しさは、京都金閣寺の鳳林和尚が1667年(寛文7年)に慈光院八景の詩に読み込んで讃えています。

堀口捨己氏はこの庭について、東の遠くの山々の大きな自然の美しさで十分であり、自然を取り込む山水など必要なかったことや、刈込みに囲まれた平地の広さのよさと、それを霰石の歩道が心憎いほどに強めている事などを述べ、「このような庭は他に例がない。刈込みなどは修学院離宮の御庭の中に見えるし、平らな庭に直角に折れる道などは桂離宮の御庭などに見られる技巧ではあるが、このような建築的な纒まりだけで、遠見に借りた自然のよさを全くよく生かした庭は、類を知らないものであって、このような庭を作り得たのは、石州を措いて他に人があろうとは思えない。」(注2)と絶賛されています。こういう文章を読んでもつくづく、東側の、昔そうであっただろう美しい自然の眺めと同時に、お庭を味わえたらと思います。

とはいうものの、お庭や眺望と一体となった書院の空間に座っていると、寒さにもかかわらず、とても気持ちよいものでした。(写真 上 書院南の庭 下 書院南の庭の大刈り込み)

 

所作には少しもあらわさぬように仕る事にて候

今回、茶室や日本の古建築が好きでよく見に行くとはいうものの、細かな意匠について深い知識があるわけでなく、ましてや茶道を嗜んだこともなくて茶道の精神や流派や歴史についても明るくない私が、どこまでお伝えできるのか疑問ですが、先生方の解説を参考に、石州がどういう考え(コンセプト)を持っていたのか、またそれがどう空間化されているか、考えながら文章にしていきたいと思います。

もし日本の古建築が好きであちこち見に行かれている方が、慈光院を訪れたら、あまりにあっさりとした意匠であれ?と思われるかもしれません。豪華な組み物や彫り物があるわけでなく、凝った仕掛けがあるわけでもありません。しかし実はそれこそが石州の狙いなのです。

中村先生が、石州が松平庄九郎にあてた文より、いくつかご紹介下さいました。

「所作には少しもあらわさぬように仕る事にて候」すなわち、いかにもやりました、つくりました、というのではなく、作ったという事を感じさせないようにするべきだ、というのです。むむむ、と思わずうなりました。中村先生の言葉をかりれば、石州は平凡にして平凡に非ず、というものをつくるというのです。堀口捨己氏も、奈良の自然を生かすように「目に付く見せ所を全く持たない座敷」「それは彼の茶杓の様に見慣れた形で、しかも正しい法式を追うている」(注2)と表現されています。

「形を楽しむ数寄者は真の数寄者に非ず。心を楽しむ数寄者こそ誠の数寄者とは云うべけれ」これなどは、思わず大きくうなずいてしまいました。そう、全くそのとおり!

書院について中村先生の解説は次のようでした。

質素淡白。角柱の面取が大きい。

鴨居がぐるっと回っていない。

付書院の無目と床の落掛けが同じ高さ。それらより鴨居が少しあがっている。普通は落掛けは上に上げ、そのせいも少し大きい。落掛けが低いというのは茶の湯の床である。

一般的な書院に比べて天井が低い。長押が無い。

なるほど。石州は、意匠をあれこれ作るのではなく、最小限の構成要素のみを、各部のプロポーションを常識から少しずつ調整することで構成の美しさを追求し、庭や景色と調和させ、またそれらを最大限生かすことを意図したのではないのでしょうか。全く古さを感じさせない考え方ですね。

 

茶室

書院の北側に、広縁に続いて茶室があります。2畳台目(2畳+1畳より小さい台目畳の点前座)の南に2畳の控えの間がついています。この控えの2畳について、堀口捨己氏はふすまをはずして4畳台目茶室としても差し支えないような意匠の名残があると説明されています。(注2)また、書院の北側にある廊下を西に行くと突当たりに3畳間があり、寄付き(まず連客が寄付き集合し、足袋をあらためたりした後、路地へ向かう)に使われたらしいということです。(写真 書院東の広縁より茶室を見る)

書院の東側の庭と茶室の庭が続いているのですが、開放的な書院の庭と、今は一部しか残っていない築地塀で囲われた茶庭とはっきり性格が変えられていて、竹垣で区切られています。堀口捨己氏は、書院側の手水鉢と、茶庭の蹲居が近づきすぎていることや飛石の乱れ、茶室と書院の構造の取り合いなどから、もとは茶室はもっと西にあったのではないかと想定されています。また、書院の庭も含めて燈籠が一つもないことも特徴で、この環境には不要であっただろうと書かれています。(写真 上 茶室東側外観  下 茶室北側外観)

中村先生による茶室内部の特徴の解説です。

 

後ろ床(亭主床)

亭主がお点前をする左手、客から見て亭主の向こうに床があります。床は普通、客側にあり、床のあるところが上座とされます。この後ろ床は、石州が大名だから亭主側に床をつくったとする説に先生は異を唱えられ、山科道安の記した「槐記」によると、茶道口があるところが下座という考え方があるとのこと。織田有楽や利休流でも自由に床が動いているそうです。この茶室では床が亭主側にあることで客側がくつろいだ、窓の多い明るい空間になっていると指摘されます。また堀口捨己氏は実際に使用してみると少しも差支えがなく部屋の組み立てによい効果を与えていると述べらています。(注2)

 

中柱

なにげない茶室の中で中柱が異色。櫟(くぬぎ)の皮付きで、ほとんどまっすぐですが天井にとりつく手前で少し曲がっています。石州はこの中柱が気に入っていたということです。また中柱についた袖壁の下部に横木がついていますが、大名は織部の真似をして木を使用することが多いのですがここでは利休流の竹になっています。(写真 点前座、床、中柱)

 

吊棚

大名(織部、遠州好み)は上の棚が長く下棚が客座から見えないように横木の上につける雲雀棚、利休流は上下同じ大きさで、下棚を横竹より吊り下げるそうですが、ここでは上下同じ大きさで下棚は横竹より上です。(写真 吊棚 風炉先窓)

 

床框と床柱

床柱や床框は奇をてらったものでない素直な材なのですが、ちょうな目がつけてあります。しかも床柱は正面でなく、裏側に。はこれは石州の好みだそうです。写真で分かるでしょうか。(写真 床框と床柱)

 

にじり口

石州の茶室は貴人口(障子2本建ての通常の上がり口)が多いがここはにじり口。一般的には隅からにじり口がはじまるそうですが、ここでは4寸の小壁が付いています。(写真 正面下部がにじり口)

 

天井

普通は点前座だけ落天井にして、他の部分よりへりくだった気持ちを表現することが多いですが、ここは一面、野根板です。竹の棹縁天井が床差し(床に対して棹縁が垂直)になっています。今は嫌われますが、この時代はあまり気にしなかったということで、書院も床差しです。(写真 茶室天井)

茶道口上部 客座

(写真 上 茶道口上部  下 窓が大きく明るい客座)

寄り付きに使われたという西三畳です。網代天井、面皮柱(面取り角柱で隅に皮を向いたままの肌を残した柱)、写っていませんが手前の壁には丸窓が切ってあります。見えませんでしたが、こちらにもちょうなはつりがあるそうです。(写真 上 西三畳 茶道口  下 西三畳 床)

茶室の動画です。最後に見えるのが、西三畳の丸窓です。暗くてダイアルアップ用はかなりつらいですが・・・。

 

さて、細かい意匠についての説明を書いてきましたが、これら全て、「なぜこのようにしたか」については、「石州が何を考えたていたのか」が反映されているのです。所作には少しもあらわさぬように仕る事にて候―一見平凡に見える床柱や床框にちょうな目をつける。そこに美を見出す。天井もシンプルにし、凝った意匠は使わない。私などはまだ、説明を聞いて、はあ、これがそのちょうなはつりですか、と知った段階ですが、実際に見て、そういうことを「平凡にして平凡に非ず」美しい、と認識する考え方がある、ということを知る。それがやがて自分の中で消化され、日々の生活のなかでそういう見方ができるようになるのが、こういう見学をする事の醍醐味です。大げさな言い方をすれば、多くの人がこういうものに触れることで、日本の美の捉え方を、徐々に自分のものとし、創作活動はもちろんのこと、日々の生活を通して、次世代に伝えていくことができれば、それが文化の継承の小さな流れになるのではないでしょうか。

石州の茶杓は利休のよりも評価されていて、中村先生によると「おとなしいけれども、ひとたび目を向ければ心をつかむ」そうです。素直な形に、一刀、かすりを入れるそうです。床柱と同じ考え方ですよね。私は見たことがないのですが、イメージは伝わってきました。

茶道をたしなんだことはないのですが、想像するに、石州が自分の考え方を建築や庭に具現化したのと同様、お作法の一つ一つや、石州三百箇条に書いてある事に考えが反映されているのでしょう。それを学ぶのが、茶道なのではないでしょうか。他の流派はまた違った考え方が現れているのでしょう。前から茶道を習いたかったのですが、ますます習ってみたくなりました。だけど、どこで習うのがいいのか、見当がつかないのです。

 

慈光院へ行きましょう

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。せっかくですから、是非、実際に行ってみてください。ご住職が、周辺環境の悪化を懸念し、いろんな働きかけをされているのですが、ご苦労されているご様子です。慈光院のよさは、周辺環境と一体となって味わうものです。多くの人が訪れて、慈光院の価値をさらに多くの人へ伝えることが、周辺の地域に理解していただき、京都のように行政も動かす原動力の一つだと思います。

慈光院に行くと嬉しいことに、お蕎麦や精進料理がいただけます。また、観月茶会などの行事に気軽に参加できるそうです。詳細は慈光院ホームページをご参照ください。また、よく古建築の見学に行ってもなかなかホームページでお伝えできないのですが、それは写真禁止だからです。慈光院では撮影させていただけます。ご住職は、写真ではなく自分でスケッチするのが本当の芸術家でしょう、と言われ、全くその通りなのですが、ホームページに掲載したり、細かい部分がどうなっていたか記録するにはやはり写真は便利ですので、大変ありがたいのです。私も時々訪問するお気に入りの場所になりそうです。

(写真 手水鉢。いずれも石州作、重要文化財。上より書院東庭、西三畳前、書院南庭)

注1

「庭の歴史を歩く―縄文から修学院離宮まで―」大橋治三(三交社)

注2

「草庭」堀口捨己(筑摩叢書)